教科書に載ってみたいな日記

教科書にいつか載りたい人が綴る、軽快ラブコメディみたいな、ってかそうでありたい日記でございます。

全ては0から生まれるのだ。

実は私まだ高校生!

19歳の高校生!

 

というのも通信制の高校に通ってまして、去年書道のテストで習字道具を忘れてしまうという天然ムーブかましてしまったので書道の単位取るためだけに月一回くらいのペースで学校に行ってるのです!

 

そして今日は半年に4時間しか出なくていい書道の授業の日だったのですが、その授業の内容が「仮名の成り立ち」。

 

まあもうその昔にはいろんな事があって、そのいろんなところを省略して説明されたのですが、昔の日本人が自分達のスタイルを作り上げて自分達だけの文化を作り出そうとした結果、仮名が生まれたわけなんですね。

 

そして今では若者の間でTikTokなるものが流行っておるそうですが、遠い昔にはそれと同じように、一句読みブームが到来していたようで。

 

 

チョベリグなチャンネー達が川辺で筆と紙持って体揺らしながら一句読み合ったり、

 

鼻水垂らしたわんぱく坊主が一句読みながら庭を走り回ってたり、

 

隣の村の紳士淑女が夜な夜な隠れて一句読み合ってる所をみんなでこっそり見に行ったり、

 

 

最後に「なかとみのかまたり」でオトそうと思ったけど書いてるうちに冷めちゃったからやめるね。

 

まあそんな出来事があったんだろうなということは容易に想像できますよと。

 

で、昔の日本人の美的感覚的に「余白を楽しめる」そうで、海外だとスペース空けずに文字書いちゃうところを、日本の短歌は少し空白作ったりしてて、そこも楽しんでたそうなのよね。

 

これって私すごいわ〜って感心しちゃったの。

 

数字の中でも0は割と後の方に定義付けされたものっていう話は有名だけど、この「無いもの」を「有る」として捉えるってすごく良い。

 

光石研が悪役で出てくる映画くらい良い。

 

音楽とかにも通ずるし、スポーツにも通ずるとは思うんだけど、「何も無い」部分があるからこそ他の部分が活きてくることって多いんだよね。

やっぱりバンドがギターベースドラムかき鳴らした後の静寂って、これから始まる未来への期待感だったり余韻的な感情が強まるし、スポーツで言うとサッカーなんかは1番有名であろうメッシの得意なプレーがトップスピードに乗った後のブレーキだったり、止まってた所から一気にスピード上げるみたいな緩急の使い方だったりするんだよね。

 

これって100があるからこそ0が活きたり、0があるからこそ100が活きるみたいな事だと思うの。

 

で、最近余白を楽しめてるのかって事なのよね。

 

巷では切り抜きが流行ったりだとか、とにかく時短!映画も観る時間がもったいない!

みたいな風潮になってない?

 

これって余白を楽しめてないんじゃないかなと思う。

 

映画を観た後に自分がそれをどう解釈したのかを改めて考える時間だったりとかって圧倒的に減ってる気がする。

それはもちろんネットで考察とかの情報がすぐに手に入るからみたいなとこが大きいだろうけど。

本当にそれでいいのか。

 

人はなんのために生まれてきたのだろう。

 

俺は考えるために生まれてきたんだと思ってる。

 

だからこそ脳があって、意思があって、自我があるんだろう。

 

オレスカバンドの好きな歌詞でNEXSPOTという曲にこんなものがある。

 

「情報は偉くもない。全ては自分次第。」

 

まさにそう。

 

生き方を決めるのは他人ではない。

 

己の手で自分の死を手繰り寄せてるんだ。

 

だったら、この世界に比べたらちっぽけな己の脳みそ震わせてゆっくりゆっくりと余白の中をもがいてやろうじゃないか!

 

 

 

 

まあこれ書きながら闇金サイハラさん見てるんですけどね。